生物部会の歴史
生物部会の歴史
日本放射線腫瘍学会生物部会の成り立ちと経過
東北放射線科学センター理事長
東北大学 名誉教授 坂本 澄彦
生物部会は発足してから45年が経過し、最近ホームページも立ち上げられたので、三橋部会長の依頼もあったので、この機会に記録が風化しない内に、生物部会の歴史を記録に止めたいと思う。
1.生物部会の誕生
日本医学放射線学会に生物部会が発足したのは、昭和39年(1964年)であった。この年の医学放射線学会の会長は、岩手医科大学教授の足沢三之助先生であった。この時、アメリカで放射線感受性の細胞周期依存性を発表して世界的に注目されていた寺島東洋三博士の講演をお聞きする事を目的として放射線生物の研究をしていた人が20人ほど集まった。放射線学会には既に、物理委員会(後に物理部会と称するようになった)という組織があって、放射線物理に関する研究発表、情報提供や報告などをしていた。そこで、寺島先生の講演後に、医学放射線学会に生物部会を設け、放射線生物研究を討議する会の設置を理事会に働きかけをする事が発議され、粟冠正利先生(東北大学医学部放射線基礎医学講座教授)の提案で、初代生物部会長として菅原努先生(京都大学医学部放射能基礎医学講座教授)が推薦され発足する事になった。
初回の生物部会は昭和39年の日本放射線影響学会が仙台で古賀良彦会長(東北大学医学部放射線医学教室教授)の元で開かれた時に、旧艮陵会館で粟冠先生のお世話で開かれた。この時は伊藤隆先生(当時は東大助教授、後に教授)、仲尾善雄先生(放医研、後に広島大学教授)、斉藤達雄先生(東北大抗研教授)の話をお聞きしたが、出席者は小生を含め10数人であった。
その後、原則として、日本医学放射線学会や日本放射線影響学会の折に、生物部会が開かれていた。
2.開催回数について
生物部会は当時、第何回と云う様には呼ばれていなかった。昭和54年に東大の岡田重文教授が生物部会会長になったが、岡田先生は昭和44年に日本に帰ってこられ、日本の事情に疎かった事もあって、当時、助教授だった小生が、生物部会が今迄に、何回、どんなテーマで開かれているか調べて欲しいと頼まれた。その為、小生の手持ちの資料や、種々の文献を調べ、大変苦労をして、やっと調べ上げた。その時、夫々の生物部会の回数を付けることし、回数は開催順に、昭和55年の時点で、後追いで、付けていったものである。生物部会会員名簿の終わりに付録として生物部会開催の記録が載っている。この表は小生が作成したものに追加して作成されたものであるが、第7回と第8回の間に、回数の無い生物部会があるが、小生は昭和41年から44年まで外国留学していた為、この時期は、手持ちのデータに乏しく、関係者に聞いても誰も記憶しておらず、当時の学会誌などを調べたりした結果、当時は大学紛争の最中で、放射線学会でも青医連運動の問題などがあって学会そのものがスムーズに開けるかどうか危ぶまれていたそうで、生物部会も単独で開く事が出来ず、放射線学会の期間中に、生物部会の演題だけを集める事も出来ず、独立したセッションを持てなかった為に、第何回という表示が出来なかったのである。
3.生物部会の運営
上述した様に、生物部会は、1年に3回開かれた事もあるが、原則として、年2回、主として放射線学会と影響学会の時に開催されて来たが、生物部会費を徴収する事も無く、会員の名簿も大変不完全なもので有った。又、生物部会の活動はプログラムも含め、会長の裁量で全て決めていた事もあり、時代背景も手伝って、一時増加傾向にあった生物部会の出席者が年々減少して、活性が失われて来ていた。発足以来、生物部会に必要な費用は、学会会長や、部会を世話する先生に全面的に負担をして頂いていたが、生物部会も規約を決め、部会長の任期、幹事会の設置、部会費の徴収などを決めて、部会の活動を推進しようと云う事になった。小生が規約の素案作りを依頼され、昭和48年春、久留米大の尾関教授が会長をされた医学放射線学会の折に開かれた生物部会で、規約(案)を提案し承認され、以後規約に則った運営がされる様になった。しかし、その後も生物部会に出される演題の数は少なく、教室紹介と云う企画などをして、教室単位で部会に関心を持ってもらい、生物部会への積極的参加者を増やしていこうと言う努力がなされた。
一方で、昭和46年から放射線による制癌シンポジウムが始まり、此方の方が人気も高く、参加者数も多かった事が、生物部会の発展に影響を与えたのかもしれない。
4.制癌シンポジウムの誕生
生物部会の活動として行われている“放射線による制癌シンポジウム:基礎と臨床の対話”は昭和46年2月に第1回が開かれている。これは、前述の様に、生物部会活動の衰退と関係があったのかもしれないので、制癌シンポジウム発足の経緯に触れておきたい。
昭和45年の夏に松沢大樹先生(当時、愛知県がんセンター放射線研究部長、後に東北大学抗研―加齢研教授)が非常勤講師として、放射線基礎医学の講義の為に仙台に来られた時、小生は、前年に外国留学から帰り、東北大学の助教授をしていたが、松沢先生から、日本の放射線基礎医学研究者と放射線臨床医との間にギャップが大きく、アメリカの様に基礎研究者と臨床医の間の様に、もう少しギャップを埋められないものだろうかと云う話が出された。松沢先生から、基礎と臨床の対話が出来るような会を造ろうと提案され、その為の準備をする事になった。先ず世話人として、臨床も基礎も分かる人と言う事で、浦野宗保、望月幸夫、田中敬正の諸先生に加わってもらい5人の世話人で発足する事になった。又、世話人にはならなかったが、愛知県がんセンターの放射線部長であった森田皓三先生も議論に加わってくれた。
第1回は翌年(昭和46年) 2月に松沢先生が世話人となり、佐々木武仁先生(当時、東京医科歯科大学助教授、後に教授、生物部会長)の世話で、医科歯科大学の小講堂を使って開かれた。当初、3~40程の出席者を見込んでいたが、非常に盛況で、会場は溢れんばかりの参加者があった。その後、これを生物部会の行事とさせてくれないかと云う申し入れがあり、世話人の間では生物部会の主催に反対する意見も強かったが、とに角、5人の世話人が一回ずつシンポジウムを世話した後に決める事にしようと云う事になったが、privateの会では学会出張という形では、旅費を出し難いなどと云う声もあって、最終的には生物部会に任せる事になり、第6回から生物部会の世話で開く事となり、現在まで続いている。
5.従来の生物部会と制癌シンポジウムの住み分けに就いて
制癌シンポジウムを生物部会が主催する事になり、両方の会合で同じ様なテーマを取り扱うのは意味がないと言う事で、clear-cutには行かないかもしれないが、従来の生物部会の会合では、主として一般放射線生物学、放射線障害、防護、保健物理などを扱い、制癌シンポジウムでは基礎研究と臨床研究の対話が出来るような、腫瘍放射線生物学の研究と臨床医の立場から、問題点を挙げて貰い、一緒に議論する場所にしようと云うことが、話し合われた。しかし、これに拘る必要も無いが、両者の住み分けは必要ではないかと思っている。その点、今の様に、2日に亘って、生物部会大会と制癌シンポジウムを同時に開催するのは良いideaだと思っている。
以上、生物部会と制癌シンポジウムの成り立ちと歴史的経過を述べてきたが、後年、生物部会の歴史を纏めようとする試みがなされた場合に、記録の一つとしてお役に立てばと思っている。